裕子は化粧品メーカーの営業として十五年働き、夫の誠とは十二年連れ添っていた。大阪の展示会は毎年の恒例行事で、ブースに立ち、名刺を配り、夜はホテルで一人でビールを飲むのが常だった。
ジュンホはソウルの販売代理店から来ていた。日本語はたどたどしいのに、言葉の選び方がとても丁寧だった。初日に名刺を交換し、二日目には昼食を一緒にとり、三日目の夜、二人は道頓堀の川沿いを歩いていた。
川沿い
ネオンが水面に揺れていた。ジュンホは何も言わずに立ち止まり、裕子を見た。キスをしたのは裕子のほうだった。自分でも驚くほど迷いがなかった。
彼のホテルの部屋は、街の灯りを見下ろす高層階にあった。その夜のことを、裕子は誰にも話していない。自分自身にさえ、すべては。
新幹線
帰りの新幹線で、裕子は便箋を取り出した。宛先は書かなかった。
あなたといた三日間、私は誰かの妻でも、誰かの部下でもありませんでした。ただの私でした。それがこんなに怖いことだとは知りませんでした。
書いているうちに、手紙の相手がジュンホなのか、夫なのか、自分自身なのか、わからなくなった。
京都駅のアナウンスが流れたとき、裕子は衝動的に席を立った。
寺
東京に戻ったのは翌日の夜だった。「展示会の片付けが長引いて」と誠に伝えた。
その間、彼女は京都の小さな寺にいた。住職に頼んで、境内の隅で手紙を燃やさせてもらった。紙が灰になっていくのを、最後まで見届けた。
「何か、手放したかったのですか」と住職が聞いた。
「いえ」と裕子は答えた。「覚えておくために、燃やしたんです」
ジュンホからは一度だけメッセージが来た。裕子は「ありがとう」とだけ返した。
夫には話していない。いつか話すかもしれない。ただ、あの日から裕子は、夕食のときに誠の目を見て話すようになった。誠は理由を聞かない。ときどき、少し不思議そうに、嬉しそうに笑う。



