健太がその願いを口にしたのは、結婚して七年目の冬だった。酒の勢いを借りて、冗談めかして、それでも目は真剣だった。美咲はしばらく何も言わなかった。けれど春になって、一枚の予約票を彼に見せた。京都、東山の小さな旅館。離れの部屋がひとつ。
「お客さんは私が選ぶ。ルールも私が決める」と美咲は言った。「あなたは、障子の向こう」
ルール
客の名前は蒼といった。京都で茶器を作る陶芸家で、美咲が前の年の陶器市で知り合い、何週間も言葉を交わしてきた相手だった。健太が彼に会ったのは、旅館の玄関で一度、頭を下げ合っただけだった。
離れには部屋が二つあり、間を障子が仕切っていた。美咲は手前の部屋に座布団を一枚置いた。
「ここで正座して。動かない。話さない。私が名前を呼んだときだけ、返事をして。もし何かがおかしいと思ったら、誰にとってでも、『桜』と言って。そうしたら全部止める」
奥の部屋に行灯がひとつ灯された。
影
障子紙は薄く、灯りの向こうの影をくっきりと映した。美咲の横顔。結い上げた髪がほどける線。もうひとつの影が、ゆっくりと彼女に近づいていく。
見えるのは輪郭だけだった。だからこそ、すべてが大きく感じられた。衣ずれの音。小さな笑い声。息遣いが変わる瞬間。健太の頭の中で、影は何倍もの意味を持った。
ときどき、障子越しに声がした。
「健太」
「はい」
「まだ、そこにいる?」
「います」
その短いやりとりが、その夜でいちばん親密なものだった。その先に起きたことは、東山の離れの中だけにある。
朝
蒼は夜明け前に帰っていった。健太に深く頭を下げて。
美咲が障子を開けた。浴衣を羽織っただけの姿で、健太の前に座った。
「今度はあなたの番。全部話して。恥ずかしいと思ったことも」
健太は話した。一分で来て一分で去った嫉妬のこと。消えずに残った誇らしさのこと。影の彼女が、これまで見たどの彼女よりも自由に見えたこと。
東京のマンションには障子がない。それでも美咲は、寝室のドアの前に和紙を張った衝立を置いた。ときどき、夜にその向こうから名前を呼ぶ。健太はいつも、すぐに返事をする。



