彩は冬のブーツを出そうとしただけだった。玄関の靴箱のいちばん奥、夫の古い革靴の中に、見たことのない黒いスマホが押し込まれていた。
暗証番号は夫の誕生日だった。メッセージは八か月分。「ミカ」という名前。横浜のホテル。夫の大輔が彩には一度も言ったことのない言葉。
夕食
彩はいつも通り夕食を作った。肉じゃがと味噌汁。大輔が席に着いたとき、黒いスマホは彼の茶碗の横に置かれていた。
大輔は青ざめた。言い訳をし、謝り、泣いた。彩は黙って最後まで食べた。
「出ていかない」と彩は言った。「そんなの、あなたには楽すぎるから。今夜、私の目の前で彼女と終わらせて。それから、新しいルールを決める」
新しいルール
ルールは紙に書かれた。
一、彼女とは今日で終わり。 二、私は月に一度、好きな人と出かける。 三、その夜、あなたは家で待つ。そして一時間ごとに「待っています」と送ること。
大輔は震える手で、署名した。
金曜日
最初の金曜日、彩は何年も着ていなかった深紅のワンピースを着た。玄関でヒールを履きながら、振り返った。
「相手は、前の職場の先輩。ずっと優しかった人」
午後八時。待っています。
午後九時。待っています。
午後十時。待っています。早く会いたい。
彩はその通知を、ホテルのバーで、隣に座る男の肩越しに見た。そして画面を伏せた。
午前一時。待っています。
帰宅
彩が帰ったのは午前二時半だった。大輔はリビングのソファで、スマホを握ったまま座っていた。怒りを予想していた。だが彼の目にあったのは、まったく別のものだった。剥き出しの、切実な欲望。
「教えて」と彼はささやいた。「全部」
彩はヒールを脱ぎ、隣に座り、話した。ゆっくりと、すべてを。
黒いスマホは、もうない。靴箱には今、彩の深紅のヒールがしまってある。月に一度、それが玄関に出されると、大輔は黙ってスマホの充電を確かめる。



