その店は六本木の雑居ビルの地下にあった。看板はなく、扉に小さく店名が書かれているだけだった。翔は扉の前を三回通り過ぎ、四回目にようやくノックした。
扉を開けた女性は、彼の顔を見て微笑んだ。「初めてですね。大丈夫。ここでは、嫌なことは何も起きません。それが最初のルールです」
玲
奥のソファに、ひとりの女性が座っていた。黒いドレス、切りそろえた前髪、手には閉じた扇。扇の骨に、黒いベルベットが張られていた。
翔が見つめていると、彼女は扇の先で、すっと自分の隣の床を指した。
「座って。床に」
翔は座った。
話
何かが始まる前に、玲は話をしたがった。一時間近く。何を求めているのか。何が怖いのか。何は絶対に嫌か。彼女は決して笑わずに、真剣に聞いた。翔は、誰にも話したことのないことまで話していた。
それから、玲は扇を彼の目の前に掲げた。
「これがルール。扇が閉じている間は、目を伏せて。開いたら、私を見ていい。話していいのも、扇が開いているときだけ」
「やめたくなったら?」
「立ち上がって『ベルベット』と言えばいい。それで終わり。すぐに。ここにいる誰も、あなたを変な目で見たりしない。約束する」
「もし、言わなかったら?」
「そのときは、自分について何かを知ることになる」
扇
その夜、翔は扇の音を聞き分けることを覚えた。閉じるときの、乾いた小さな音。開くときの、ベルベットがこすれる柔らかな音。
閉じている時間は長かった。床を見つめながら、彼女の声だけを聞いた。他の客と話す声、グラスを置く音、ときどき、彼の髪に触れる指。そして、扇が開く。顔を上げると、玲が見ていた。それだけで、胸が苦しくなった。
その先、奥の部屋で起きたことは、あの地下に残っている。
午前三時、玲は扇をぱちんと閉じ、彼の手に乗せた。
「持っていて。次に来るとき、私に返して」
扇は今、翔の部屋の本棚にある。ときどき、それを少しだけ開いて、ベルベットの音を聞く。それだけで、顔が熱くなる。



