チラシはマンションのエレベーターに貼られていた。書道教室。個人指導。九〇二号室。大人の方のみ。
拓也は三十四歳の会社員で、筆を持つのは小学校以来だった。それでも、毎朝そのチラシを見ているうちに、なぜか目が離せなくなった。
静香
教室は和室がひとつだけの小さな部屋で、窓の向こうに新宿の高層ビルが並んでいた。静香は五十歳前後で、黒い着物に白い半襟、髪をきっちりと結い上げていた。
「姿勢」と、最初に彼女は言った。「背筋を伸ばして。筆は立てて。息を止めないで」
拓也が書いた「永」の字を、彼女は一目見て半紙ごと脇に置いた。
「もう一度」
十二回書き直して、ようやく彼女は小さくうなずいた。そのうなずきが、拓也には信じられないほど嬉しかった。
規則
三回目の稽古の日、静香は半紙の代わりに一枚の紙を差し出した。
「あなたは字を習いたいのではない」と彼女は静かに言った。「誰かに正されたいのでしょう。見ればわかります」
紙には三つの欄があった。望むこと。決して望まないこと。どこまで。そして一番下に、一語だけ。赤。
「その言葉を言えば、私はただの書道の先生に戻ります。気まずさも、詮索もなし。家で書いてきなさい」
一画ずつ
それから、稽古の後半は別の時間になった。
静香が規則を口にし、拓也がそれを筆で書く。許しなく話さない。 目を伏せて待つ。 褒められたら、礼を言う。 一画でも乱れれば、書き直し。何度でも。
書き上がった規則を、彼女は壁に一枚ずつ貼っていった。彼に正座させたまま、それを声に出して読ませることもあった。彼女が触れることはほとんどない。肩に置かれる手、顎を上げさせる指先。それだけで、何日も体に残った。九階で起きることは、九階に残る。
今、壁には十四枚の規則が並んでいる。拓也の字は、見違えるほど上手くなった。会社の同僚に褒められると、彼は少し赤くなって、「いい先生についているので」とだけ答える。



